少し前に、テレビを見ていたら、ある還暦を超えた元プロ野球選手が、体力測定を行ったところ、小学生高学年レベルの結果を残したということで、医師たちを驚かせていた。やはり加齢による体力低下は著しいものがあるようだ。これはピアニストにであっても例外ではないだろう。体を使うと言っても、一般的な肉体労働と比べればその運動量は少ないので、むしろ、加齢による体力低下はデスクワーク中心の人々と同じ程度のものであるように思われる。つまり、若者に比べて体力的に圧倒的に劣る老大家が、大曲を弾きこなすことができるのは、その方法によるのである。
私は、大家の教えを乞うことができる身分ではないので、映像を見て方法を探ることが出来ないのであるが、やはり、助言というものが一番分かりやすいらしい。
2016年に発売されたポリーニの自伝風インタビュー映像の中で、有名なショパンコンクールでの逸話についての一節がある。ルービンシュタインの「この中で彼よりも技術を持った者がいるだろうか」云々の話だ。世界の短慮な愛好家たちは、世界一のピアニスト誕生を意味するものとして受け取ったが、ポリーニは、まず、一種の嫌味として、あるいはルービンシュタインの勝利宣言として、受け取ったのである。「いや、それは技術に限った話にすぎない」。しかし、どうやらルービンシュタインは公にはあのように言ったものの、ポリーニの演奏での体の姿勢にも問題を見つけていた。肩をたたきながら、彼に次のような事を言ったそうである。「君、肩から弾くとどれだけ弾いても疲れないよ」。ポリーニはこの老大家の忠告とエールをうけて、数年の間、研鑽に努めることになる。
なるほど、正当性や賛同者、筆者の肩書が完ぺきで何の役にも立たない資源ごみの類の教則本など腐るほど出版されていて、今でもそうだ、後を絶たないと言ってよろしい。弟子にでも買わせるのだろう。下らない権威主義はそれだけで非難の対象としては十分である。しかし、役に立ちそうにないのは権威主義のためではない。これらの本の欠陥は、美しい音を定義するところや、人体の医学的学問の観点から論じているところにあるのだ。問題の立て方に誤りがある。
そもそも技術とは、人間の自由を広げ、妨げとなる障害を克服し、またそれらは科学的(反復可能性が極めて高いくらいの意味だが)であり、もって福祉の向上につなげるものである。観念的な美というものは、技術の働きの後に現れる音楽が耳において発見されるものであり、筋肉や骨格の構造の理解は、医学の発展には寄与しているのだろうが、ホロヴィッツが嘲笑しているように、手の動かし方を教えるものではない。赤子に歩き方を教えるのに骨格がどうのと説く人間はおるまい。問いは、任意の音を出すための方法(手や腕の動かし方)とは何かであり、また、演奏による疲労を抑える方法とは何か、である。
その点、この本は単純に鍵盤のいじり方のみを指南しているので有益である。少なくとも、実験の対象とする価値はあるだろう。この本が重視するのは手首の動かし方である。鍵盤に対して上から望むか下から望むかなどなど。基本的な技巧が12頁で終わってしまうのが、なんともさびしい感じがするのだが。それ以降は、三度やオクターブなど一般に難しい手の動きのための練習案が続く。
ところで、この手の本に日本語訳が一度もなかったところに、我が国のピアノ教育の質が現れているのではないか? 版権費用が異様に高いという事情があるのかもしれないが。値段は1,700円強。なんと電子書籍まである。おためしあれ。